1935年(昭和10年)に、出口王仁三郎氏に白山義高氏が依頼を受ける

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【第一配信】1935年(昭和10年)に、出口王仁三郎氏に白山義高氏が依頼を受ける

 淡路島の古代ユダヤ遺跡に関わっていて思うのは、淡路島には何らかの「特別な計画(予定)」があって、その「特別な計画(予定)」に基づいて、各時代に於いて様々な出来事が仕組まれてきたような感想を持ちます。

出口王仁三郎  特に、古代ユダヤ遺跡を発掘された白山義高氏と出口王仁三郎氏の関わりを知るにつけ、なんらかの「特別な計画(予定)」があったと思われます。
 以下の枠内の引用から、古代ユダヤ遺跡の場所は出口王仁三郎氏から白山義高氏が指図されていたことが分ります。
 二千数百年前に「ある意思」に基づいて古代ユダヤ人が淡路島に導かれ、「ある意思」に導きによって淡路島の各地に遺跡を残していった。
 それから、二千数百年経過し「ある意思」が動き、出口王仁三郎氏を通して、白山義高氏に調査を依頼した。

「ある意思」からみると、3000年近い時間をかけた一大抒情詩のようにも見えます。
 しかし、各時代を生きる我々からみると、摩訶不思議な現象に見えてしまう。

集合写真

 2017年4月 淡路菰江古代ユダヤ遺跡奉賛会 世話役 成田亨 記す

 『淡路の神秘 エル.エロヘ.イスラエル』 PP 8 - 14

 皇道大本の意義、鳴門の仕組を委嘱される(白山義高) 

 其の当時(昭和10年)の私には、出口聖師の曰はれた、
「お前は一宗一派に囚はれてはならない。それだから大本教には入信しないで、皇道大本の行者になれ。」
 と。
 教えられたお言を理解することができませんでしたが、聖師は、当時の情勢の変遷に就て、次の如く語られました。

 

「現代は加速度的に、一途に世界は破局に向って進んで行く。
 如何なる理由を持たせるにせよ、戦争は戦争へと、全世界は戦場化して、神定の世の終末の審判が始まる。どうした機会で戦争が収拾されるかは、ユダヤ日本の完全な提携によることは、既定の事実である。
 さうしない限り、戦争の原因動機となるユダヤとアラブの宗教戦の収拾はつかない。
 眞の宗教は岩戸隠れであるから、これが世に出ない限り、思想戦も肉弾戦も、世に無くすることはできない。
 眞の宗教を世に出す業は、今の宗教家の手では絶対に出来ない相談である。今日の宗教はニセ預言者の迷信教であって、まことの宗教を知る者はない。これからの世界は益々覚有情の人間味を離れた気違ばかりの世界となる。皇道大本は、唯一の救世主(キリスト)を知らせ、宗教の本質(咒)を知らせ、更に直接に、立替立直しの業をする立役者(菩薩)を仕立てるところであるが、方便の上には、立替立直しの雛形を以て教えを示すところである。雛形では、出雲系の大本で、ユダヤを世に出し、日本系の皇道でイスラエルを世に出すところで、いまのところ、この筋書きを本当に知らせて置く適材が見つからぬ。然しまだ帝国日本が崩壊するには、十年の間があるから、腰を据えて一仕事してみる気は起らないか。」
 と相談をもちかけられました。

 

 私は一議に及ばず従順に「私の出来る事なら」とお引受けをいたしました。
 すると聖師のいはれるには、
皇道大本の究極の宗教原理を示す雛形建設の必要がある。それでは淡路の神代村といふ地に大井戸を掘上げて貰ひ度い。然し実際に、工事に着手するのは、十年先のことであるから、それまでに、淡路島の古文化遺跡の史料調査をして欲しい」
 と要所要所の差図を受けました。

 

 間もなく第二次大本弾圧があって、出口聖師は投獄され、同時に皇道大本の宗教的雛型たる神殿は取拂はわれてしまいました。これも何かの雛型の教の部類に入るのでありませう。
 昭和十七年八月、私共の井戸掘の機が熟して、着手の段取になると出口聖師は仮出獄の恩典に浴しました。私は井戸掘着手報告のために、京都府亀岡町に向ひました。当時はまだ面会禁止でありましたが、秘かにお会ひすることが出来ました。同伴者は井上功氏でありました。

 

 色々とお話のあった後、
井戸掘が始まる相で目出度い。これは私の無上の歓喜とするところだ。この井戸は元井戸と命名する。最早元井戸さへ出来れば、一安心だ。この意義と目的に就ては、これから月に三四日づゝ講義すれば、大体が解るであらう。但し時節到来まで、他言は無用。元井戸が出来たなら、宗教の目標が出来る訳であるから、そのうち、お前にも解るやうになるであらう。解って貰はねば大事のことを頼むことも出来ぬからな。元井戸が完成する時分には、この戦争も終るであらう。勝つべき戦争がな。忘れんようにせんと負けて勝つ秘法も消えてしまふがな。本当の神業奉仕は、それからだがな。兎に角、元井戸は永久保存の方法をとって貰い度い。こゝも世界の聖地になるだらう。一隅にお宮を建てて、祭るよう。御神体は、その時に下げませう。さうしているうちに、時機が到来して、ユダヤ人とのつながりが自然に出来るであらう。そのためにはアメリカユダヤに重点を置いて大いに研究するがよい。そのうちに、ユダヤ人もユダヤ国を再建するであらう。これも世界国の雛型だ。」

 

 それ以来、私は元井戸の工事を急ぐと共に、毎月のやうに二三日づゝ京都府亀岡へ通ひました。終戦近くの十九年十月には、元井戸が完成し、元井戸の敷地内にささやかな神の祠も出来上ったので聖師に報告すると、聖師は、大本開教当時から保存されてあった銀紙の短冊に御神号を認められて
 「これを御神体とせよ」
 と下されました。その時の聖師のお話は、
「この御神体は、やがて近江へ移り、更に北伊勢へ移される時が来るが、その都度差図する。この雛型行事の上にも、第一に淡路の神秘が開発されねば、「不二と鳴門の大本の仕組」は完成せぬ。不二と鳴門の仕組に就ては、皆の者が知ったか振をして、種々と取沙汰をするが、この「大地六変に震動す」の世界文化界の大問題は誰にもわかっていない。」
 と語られました。それから間もなく、終戦となり、聖師から御神体を近江へ移せと指示されたので、滋賀県甲賀郡大原市場へ移し、元井戸は、その儘の姿で保存してゐます。

 

 私は昭和二十二年十二月聖師にお目に掛ったのが最後でありました。
 その時のお話に
元井戸の御神体を北伊勢に移すことは、皇道大本雛型教の最後の宮殿を建てるのであり、この宮殿を中心として、各宗教が相集り、世界の宗教が子の一同に会する塲面となる。この世界的神劇の筋書を押進めて行けば、必ず玉成する。淡路の霊山諭鶴羽山の山腹にある子宝温泉を開鑿する前に、ユダヤ遺跡を開発することが大切である。その時には遺跡の聖地に旗を建てて、この所在を広く世界に告げ知らす必要がある。
 かうなると、日本とイスラエルに、エホバの聖地が二つ出来ることから、古代イスラエル文化の宣伝が始る。その頃には、自然に之に当るべき人材が用意されてあるから心配はいらぬ。お前はそれまで筋書通りに勇猛に精進して貰ひ度い。然しわしはモー来月からお前の世話することが出来ない。」
 と申渡されましたが、聖師は翌年一月十九日に昇天されました。

 

 私は不二の仕組も、鳴門の仕組も、何が何やら判らないけれども、只管、忠実に出口聖師の筋書通りに突進して、遂に古茂江小磯の古代イスラエル文化遺跡の聖地に日本の国旗とイスラエルの国旗を交叉して、これを広く全世界に告げ知らすまでの役目は果しました。
 これから聖師の示された雛型通に進んで行けば、諭鶴羽の山腹の子宝温泉でも開鑿して、脉々と涌き出る温湯の出口でも発見すれば、其の血(智)湯津石村に走りつきて、成りませる神の名は、石拆神、次に根拆神次に石筒之男神となるのでありませうが、徒に稱名ばかりしていても、何の利益もありさうにもありません。問題は走りつくべき地(智)の在り方であります。さて、これから先はどう行むだらよいでせうか。
「その心配には及ばない。神業に当るべき人材は用意してある。」
 と。
 聖師は、この預言を遺して昇天されたのであります。考へるまでもなく、天のエルサレム(平和神)の、雛型を地上に移す大神業が、一人や二人の少人数で出来るものではない。ヨハネ黙示録を見ても、
 視よ羔羊シオンの山に立ちたまふ。十四万四千の人、これと偕に居り、その額には羔羊の名及び羔羊の父の名記しあり
 とありますから、そのうちにこれ等因縁の用材が集って、全世界国家建設といふ大神劇を始め呉てれるであらうと、高を括って納っていることの出来ないのは、差迫った今日の問題、発掘した古代イスラエル文化遺跡の歴史科学的の実證であります。この実證的証明によって、この遺跡の久遠の文化価値を高揚するの挙に出なければならぬは申すまでもありません。


 問題の古代イスラエル文化遺跡といふのは

 昭和二十七年十月十六日正午、場所は淡路洲本市古茂江、小路谷の海岸、四州園内の小磯とよばれる景勝地の 海岸に突出した盤岩の岬に秘められた問題の 古代淡路文化遺跡の実相が、遂に多人数立会いの許に確認されました。
 其の遺跡といふのは、意外にも、自然の盤岩の裂目を巧みに利用し、其の上に鑿の無い時代の工作を想はせる 火と水との作用で製作した 女の陰所(ほど)の彫像でありました。
 今から三十年程前に一度発掘したことがあって、この預期せぬ工作物を発見したことがあるが、祟をおそれ再び埋没したといふ曰くつきの存在であります。